1925(大正14)年
1931(昭和 6)年 6歳
1938(昭和13)年 13歳
9月30日、山口県大島郡森野村(現・周防大島町)和佐に生まれる。幼い頃に両親が離婚、母と祖母の手で育てられる。
東和町立開導小学校に入学。
山口県立安下庄中学校(現・周防大島高等学校)に入学。
1943(昭和18)年 18歳
1945(昭和20)年 20歳
静岡県清水市の高等商船学校(現・東京海洋大学)に入学。全寮制のため故郷を離れる。
身体検査で肺浸潤という結核性の病気が判明し、学校から休学通知を受ける。8月、治療に専念するために帰郷。
15日、日本が太平洋戦争で敗戦。
1946(昭和21)年 21歳
復学後「海王丸」で、神戸から中国・上海に向かう。中国からの引き揚げ船を兼ねていたこの船で、鹿児島-上海間を3往復6航海する。3ヶ月の実習後、半年遅れで高等商船学校を卒業。日魯漁業下関支社に、漁船の機関士として入社。東シナ海で操業するトロール船「第六あけぼの丸」に乗り込む。
1948(昭和23)年 23歳
1952(昭和27)年 27歳
3月、腎臓結核を患い、山口の日赤病院に入院。右の腎臓摘出手術を受ける。術後の経過が芳しくなく帰郷、寝たきりの生活となる。この間に詩や小説を書きはじめる。
徐々に病状が回復。近所の子どもたちを集め、勉強を教えたりする。3月、教え子から雑誌『平凡』で「コロムビア全国府県対抗歌謡コンクール課題歌詞」を募集していることを知らされ、以前に作った詩を歌謡曲風にアレンジし、『港のスケッチ』として投稿する。9月、『平凡』に投稿の詩が入賞。作詞家・石本美由起により『チャイナの波止場』と改題、補作されてレコード化が決まる。賞金は8500円。その曲を聴こうと、賞金でラジオを購入したが、一度も流れることはなかった。この縁で、石本美由起主宰の同人誌『新歌謡界』に入会。
1953(昭和28)年 28歳
4月、『チャイナの波止場』(作曲・竹岡信幸 唄・若山彰と初代コロムビア・ローズ)発売。
作詞家・星野哲郎のデビュー作となる。
1954(昭和29)年 29歳
1955(昭和30)年 30歳
NHK広島中央放送局30周年記念歌に応募、『ともだちの歌』が入選(作曲・高木東六)。
NHKラジオ歌謡職場の愛唱歌に応募、『桐の実』が入選(作曲・村尾義晴、唄・及川惺子)。山口県小野田市制記念歌に応募した『小野田小唄』が1位入選(作曲・大村能章、唄・市丸)。11月、『むすめ巡礼』(作曲・下川博省、唄・鈴木三重子)がレコード化される。この頃から、後に妻となる有近朱實と交際、文通を始める。
1957(昭和32)年 32歳
4月、九州朝日放送10KW完成記念募集歌に応募した『大福岡行進曲』が1位入選(作曲・服部正)。同じ頃、産経時事並びに横浜市主催の横浜開港百周年記念「横浜の歌」に応募していた『浜っ子マドロス』が1位に、『みなと踊り』が2位に同時入選する。2曲とも、作曲・船村徹、唄・美空ひばりでレコード化が決定。師匠の石本美由起からの電報で知らされる。レコーディングに際して上京。コロムビア本社で、新進作曲家・船村徹と初めて出会う。船村の勧めでプロの作詞家を目指して上京することを決意。吉祥寺に下宿してレコード会社への売り込みを始める。
11月、東京・吉祥寺の四畳半のアパート「いずみ荘」で、朱實との同居を始める。
1958(昭和33)年 33歳
1月8日、星野の本家である周防大島の筏八幡宮で挙式。
3月、雑誌『平凡』とコロムビアが募集したコンテストに『思い出さん今日は』が入選。作曲・古賀政男、唄・島倉千代子でレコード化される。6月、日本コロムビアの専属作詞家になる。9月、長男・真澄誕生。師の石本美由起が名付け親となる。11月、小金井市に初めての家を建て、引越し。
1959(昭和34)年 34歳
1960(昭和35)年 35歳
8月、『黄色いさくらんぼ』(作曲・浜口庫之助、唄・スリーキャッツ)発売。初めてのミリオンセラーとなるが、セクシーすぎるという理由でNHKでは放送禁止となる。
9月、長女誕生。『黄色いさくらんぼ』の大ヒットを記念して桜子と命名。作詞依頼が増え、年間40作以上作るようになる。
1961(昭和36)年 36歳
1962(昭和37)年 37歳
コロムビアの「全国府県対抗歌謡コンクール」審査員として参加。星野の目に留まったのは2位に入選した水前寺清子だった。
3月、『さいはての唄(アリューシャン小唄)』(採譜・船村徹、唄・柳うた子)が発売。同作品は、第3回日本レコード大賞新人奨励賞を受賞した。
6月、『恋は神代の昔から』(作曲・市川昭介、唄・畠山みどり)、
9月、『なみだ船』(作曲・船村徹、唄・北島三郎)発売。同作品で北島は、第4回日本レコード大賞新人賞を受賞。
12月、『出世街道』(作曲・市川昭介、唄・畠山みどり)発売。翌年にかけてヒットし、星野にとって2作目のミリオンセラーとなる。
1963(昭和38)年 38歳
1964(昭和39)年 39歳
『りぼん』『マーガレット』といった少女漫画雑誌からも詩の掲載を依頼される。
1月、自宅に作曲家の市川昭介が都はるみを連れて来る。その声の迫力に驚き、一気に『アンコ椿は恋の花』を書き上げる。
9月、日本クラウンの専属作詞家となる。
10月、市川昭介とのコンビで作った『アンコ椿は恋の花』(唄・都はるみ)、『涙を抱いた渡り鳥』(唄・水前寺清子)が発売され、それぞれ大ヒットとなる。『アンコ椿は恋の花』は、同年の第6回レコード大賞新人賞を受賞。『涙を抱いた渡り鳥』は、翌年の水前寺清子のNHK紅白歌合戦の出場を決定づけた。
『明治大恋歌』(作曲・小杉仁三、唄・守屋浩)、『自動車ショー歌』(作曲・叶弦大、唄・小林旭)、『おんなの宿』(作曲・船村徹、唄・大下八郎)なども大ヒット。年間作詞100作以上。
1965(昭和40)年 40歳
1966(昭和41)年 41歳
1967(昭和42)年 42歳
2月、自宅2階を増築。記念して、新しくできた壁に自作品のシングル盤を塗り込む。北島三郎の唄った『兄弟仁義』(作曲・北原じゅん)、『函館の女』(作曲・島津伸男)がいずれも大ヒット。1年間で150作以上手がける。
11月、『いっぽんどっこの唄』(作曲・安藤実親、唄・水前寺清子)発売。
9月発売の『いつでも君は』(作曲・米山正夫、唄・水前寺清子)が、翌年の第1回日本作詩大賞を受賞。年間制作100作以上というペースが続く。
1968(昭和43)年 43歳
小金井市に家を新築。庭の離れ屋を「桜澄舎」と名付ける。後日、同場所は星野を慕う若い作詞家たちの団欒、研鑚の場となる。中山大三郎に代表される彼等は、「桜澄舎門下」と自称した。
6月、『艶歌』(作曲・安藤実親、唄・水前寺清子)発売。同年の第10回日本レコード大賞作詩賞を受賞。8月、『城ヶ崎ブルース』(作曲・関野幾生、唄・黒沢明とロス・プリモス)発売。12月、『三百六十五歩のマーチ』(作曲・米山正夫、唄・水前寺清子)が発売され、翌年の第2回日本作詩大賞大衆賞を受賞する。
1969(昭和44)年 44歳
4月に発表した『仁義』(作曲・中村千里、唄・北島三郎)が、日本有線大賞スター賞、全日本有線放送大賞優秀スター賞を受賞。
1970(昭和45)年 45歳
2月、『男はつらいよ』(作曲・山本直純、唄・渥美清)発売。さくらの結婚後、歌詞の冒頭の一部は「どうせ俺らはやくざな兄貴」に改められた。3月、アルバム『おめでとうの唄』(唄・水前寺清子)発売、第3回日本作詩大賞LP賞を受賞。
1971(昭和46)年 46歳
1972(昭和47)年 47歳
4月、『ねんがら子守唄』(作曲・安藤実親、唄・水前寺清子)を発売。第4回日本作詩大賞作品賞を受賞。
7月、運輸大臣より海事功労賞を受賞。
4月、朗読詩集『いろはにそらしど』を出版。
1974(昭和49)年 49歳
1975(昭和50)年 50歳
1979(昭和54)年 54歳
1980(昭和55)年 55歳
10月、アルバム『海人の詩』を発売。同作で第8回日本作詩大賞LP賞を受賞。
1月、『昔の名前で出ています』(作曲・叶弦大、唄・小林旭)を発売。2年越しのロングヒットとなり、昭和52年に全日本有線放送大賞グランプリを受賞する。
7月、東京・京王プラザホテルで作詞家生活25周年の記念パーティー開催。翌月、心筋梗塞で緊急入院する。この年、初の作品集『遠歌・縁歌・援歌』を出版。
9月、『風雪ながれ旅』(作曲・船村徹、唄・北島三郎)発売。同曲で第1回古賀政男記念音楽大賞を受賞。病後のリハビリのために自宅近くの公園で早朝散歩を開始。生活習慣を変える。
1982(昭和57)年 57歳
8月、日本音楽著作家連合会長に就任(~2001年)。
同月、『兄弟船』(作曲・船村徹、唄・鳥羽一郎)を発売。
12月、日本クラウンとの専属契約を終了、フリーの作詞家となる。
1983(昭和58)年 58歳
1984(昭和59)年 59歳
1985(昭和60)年 60歳
1986(昭和61)年 61歳
8月、『女の港』(作曲・船村徹、唄・大月みやこ)発売。
10月、日本音楽著作権協会理事に就任(~1998年)。
9月、『夫婦坂』(作曲・市川昭介、唄・都はるみ)発売。同作にて、第17回日本作詩大賞優秀作品賞を受賞。
12月、エッセイ集『歌、いとしきものよ』を出版。
5月、『海の祈り』(作曲・船村徹、唄・鳥羽一郎)発売。同年の日本演歌大賞演歌スター賞を受賞。
11月、運輸大臣より交通文化賞を受賞。
4月、紫綬褒章を受章。
8月、『豊予海峡』(作曲・船村徹、唄・大月みやこ)発売。同年の日本歌謡大賞放送音楽特別賞を受賞。また、10月発売のアルバム『女の海峡物語』(唄・大月みやこ)も第28回日本レコード大賞企画賞を受賞する。
1987(昭和62)年 62歳
3月、美空ひばりの再起となる作品を依頼される。船村徹とのコンビ作としての依頼だった。
6月、『雪椿』(作曲・遠藤実、唄・小林幸子)発売。翌63年、第4回藤田まさと賞を受賞。10月、美空ひばりの体調不良のために延期となっていた『みだれ髪』のレコーディング。その直前にひばりから自筆の手紙をもらい、「祈り」の一語が歌詞に織り込まれる。12月、『みだれ髪』(作曲・船村徹、唄・美空ひばり)発売。
1988(昭和63)年 63歳
1989(平成 元)年 64歳
1990(平成 2)年 65歳
2月、『不如帰』(作曲・桜田誠一、唄・村上幸子)発売。
4月、海上保安友の会理事に就任。
6月、日本作詩家協会副会長に就任。
7月、第1回「全日本えん歌蚤の市」を山口県大島郡東和町(現・周防大島町)総合センターで開催。
8月、第2回「全日本えん歌蚤の市」を山口県大島郡東和町(現・周防大島町)片添、サン・スポーツランド片添で開催。
8月、『心』(作曲・船村徹、唄・五木ひろし)発売。同月、第3回「全日本えん歌蚤の市」を山口県大島郡東和町(現・周防大島町)総合センターで開催。
作品集『艶歌・演歌・塩歌』を出版。
11月、エッセイ集『紙の舟~わが詞、わが友、わが人生』を出版。
1991(平成 3)年 66歳
1月、『北の大地』(作曲・船村徹、唄・北島三郎)発売。同作で、第24回日本作詩大賞と第33回日本レコード大賞(歌謡曲・演歌部門)をあわせて受賞する。
1992(平成 4)年 67歳
1993(平成 5)年 68歳
3月、腹部大動脈瘤の手術を受ける。
6月、『女の川』(作曲・船村徹、唄・森若里子)を発売。同年の日本歌謡大賞放送音楽賞と第25回日本作詩大賞優秀作品賞を受賞。8月、早朝散歩と共にやっていた公園の空き缶拾いの数を記録し始める。(初日は8月23日、拾った数は25個)。
11月、第4回「全日本えん歌蚤の市」を大阪・サンケイホールで開催。
7月、第5回「全日本えん歌蚤の市」を八丈島・富士球場で開催。
9月、作詞家生活40年記念パーティーをキャピトル東急ホテルで開催。レコード会社13社が記念作品を発表する。
11月、第35回日本レコード大賞功労賞を受賞。
1994(平成 6)年 69歳
8月、第6回「全日本えん歌蚤の市」を山口県大島郡大島町(現・周防大島町)屋代湖で開催。
11月28日、妻・朱實がくも膜下出血で急逝。享年63歳。
1995(平成 7)年 70歳
1996(平成 8)年 71歳
6月、『谷』(作曲・原譲二、唄・北島三郎)、『海鳴りの詩』(作曲・船村徹、唄・島津亜矢)発売。
同月、実母・菊枝、逝去。享年93歳。
8月、第7回「全日本えん歌蚤の市」を山口県大島郡東和町(現・周防大島町)片添ヶ浜で開催。
5月に発表した『北帰港』(作曲・船村徹、唄・鳥羽一郎)が、同年の第29回日本作詩大賞優秀作品賞を受賞。
7月、日本作詩家協会会長に就任(~2008年)。
8月、第8回「全日本えん歌蚤の市」を山口県大島郡久賀町(現・周防大島町)長浦スポーツ海浜スクエアで開催。
1997(平成 9)年 72歳
1999(平成11)年 74歳
3月、亡妻・朱實の遺稿集『妻から母へ』を出版。
7月、東京・小金井ロータリークラブ会長に就任(~1998年)。
8月、第9回「全日本えん歌蚤の市」を山口県大島郡橘町(現・周防大島町)安下庄高等学校(現・周防大島高等学校)グラウンドで開催。12月、東京・小金井市教育委員に就任(~2001年)。
3月、第50回日本放送協会放送文化賞を受賞。
7月、第10回「全日本えん歌蚤の市」を北海道茅部郡鹿部町山村広場で開催。
2000(平成12)年 75歳
11月、勳三等瑞寶章を受章。
2001(平成13)年 76歳
2002(平成14)年 77歳
2月、第11回「全日本えん歌蚤の市」を新潟県十日町市で開催。
3月、作品集『艶歌・演歌・援歌』を再編して出版。同月、缶拾い累計10万缶を達成。6月、『赤いエプロン』(作曲・船村徹、唄・中村美律子)発売、翌年の第14回藤田まさと賞を受賞。
10月、日本音楽著作権協会会長に就任(~2004年)。
2月、第12回「全日本えん歌蚤の市」を新潟市十日町市で開催。
4月、第1回山口県文化特別功労賞を受賞。
11月、缶拾い累計12万缶を達成する。
2003(平成15)年 78歳
2004(平成16)年 79歳
8月、第13回「全日本えん歌蚤の市スペシャル」を故郷・山口県大島郡東和町(現・周防大島町)東和陸上競技場で開催。都はるみ・水前寺清子・角川博・島津亜矢などゆかりの演歌歌手が多数出演した。同月、『春蝉』(作曲・遠藤実、唄・小林幸子)発売。翌年1月に第16回藤田まさと賞を受賞。
9月、キャピトル東急ホテルで作詞家生活50周年記念パーティーを開催。レコード会社8社より、自伝的な色合いの濃い作品『海で一生終わりたかった』(作曲・船村徹、唄・島津亜矢)を含む、記念CD14枚を発表する。
10月、『妻への詫び状』を出版。同月、平成4年から記録し始めた空き缶拾いの数が13万缶に達する。
12月、永年の業績を顕彰して、第45回日本レコード大賞特別選奨受賞。
11月、缶拾い累計14万缶を達成。
2005(平成17)年 80歳
3月、『大器晩成』(作曲・原譲二、唄・島津亜矢)発売。同作で、第38回日本作詩大賞を受賞する。
2007(平成19)年 82歳
2008(平成20)年 83歳
2010(平成22)年 85歳
7月25日、故郷周防大島町に星野哲郎記念館がオープン。開館記念式典では、船村徹・たかたかし・北島三郎・都はるみ・水前寺清子・鳥羽一郎他、多数の著名人が列席、盛大に行われる。
星野哲郎が名誉館長となる。
周防大島の子ども達を支援する奨学金制度「星野哲郎スカラシップ」を創設。
10月、初代小金井市名誉市民証をスタジオジブリ宮崎駿氏とともに受証。朗読詩集『いろはにそらしど』復刊。
11月15日、心不全にて逝去。享年85歳。
同日、正五位を贈られる。
12月、第52回日本レコード大賞特別功労賞を受賞。
(敬称略)